中国人の見た日本の自然と人々 - 周秀泉

中国人の見た日本の自然と人々

Add: ixubocuf21 - Date: 2020-12-10 01:05:43 - Views: 4381 - Clicks: 6954

日本の知識人やアメリカ人は、やがて中国も近代化すると思っています。 欧米諸国は1978以降の中国のめざましい発展を見て、21世紀の繁栄を信じ て疑わない、しかし中国の近代化が150年も前に初められていながら、いまだ. こんにちは、自転車世界一周の周藤卓也@チャリダーマンです。 中国における. 込む。今回の調査でこれらを網羅し、日本人のライフスタイルそのものを詳細に分析する ことは難しいため、今回はライフスタイルに対する考え方や時間の使い方に焦点を絞り、 統計資料を見てみたい。 a ライフスタイルに対する意識. . 出世の糸口となった王政君は当然大激怒。 王莽自身も、貨幣の改鋳など悪政の見本市みたいな失策を乱発し、新の財政はみるみるうちにズタボロに。高句麗や自国内の民衆による反乱が相次ぐようになります。 一応、王莽としては「周王朝をマネすれば良い政治ができるに違いない!」と考えて前例にならっていたのですが、いかんせんこの時点で周の時代から300年ぐらい経っています。 乱暴に置き換えると、徳川吉宗の政策をそのまま現代の日本でやるようなものです。 もっと具体的にいえば、サラリーマンに対して「所得税を米で納めろ!」というような感じでしょうか。 さすがに喩えにムリが出てきましたが、ともかく彼の無茶振りには程がありました。 こうした中で、新王朝に反旗を翻した人々をまとめたのが、光武帝こと劉秀です。 劉秀は前漢の六代皇帝・景帝の末裔にあたり、血筋的にも人格的にも優れていました。最初は兄に従う形で挙兵し、本家筋にあたる劉玄(更始帝)にも臣下の礼をとりました。 しかし、その二人よりも劉秀のほうがリーダーシップを発揮し、王莽を討ち果たすのです。. 済南は水の都で、先ず市の中心部に広がる「大明湖」を見てまわり、次いで〝天下第一泉〟といわれる「趵突泉」をみました。 この公園には、1928年5月3日の、日本軍の「山東出兵」による虐殺事件を記念した「五三惨案紀念館」があり、閉館間際の.

周 秀泉(シュウ・シュウセン zhou xiuquan)略 歴. 上村松園(うえむらしょうえん)は、京都生まれの女流日本画家。 女性として、初めて文化勲章を受賞した人でもあります。清澄で気品ある美人画を、女性の目線を通して描き続けました。 明治生まれの女性にとって画家を志すのは非常に難しいことでしたが、女手ひとつで子供を育てた母のサポートもあり、上村松園は日本画家として大成し、帝国芸術院の会員にもなりました。 清少納言や楊貴妃など古典や故事のほか、市井の女性、実の母などを題材に描き、プライベートでは自身は未婚の母として息子を育てました。. 58 原文霍公鳥 来喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 - 立雲乎 余曽能未見都追 中国人の見た日本の自然と人々 - 周秀泉 嘆蘇良夜須奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 見我保之御面多太向 将見時麻泥波 松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美 御面謂之美於毛和 訓読霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言 朝夕に聞かぬ日まねく 天離る 鄙にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜き取るといふ 白玉の見 が欲し御面直向ひ 見む時までは 松柏の 栄えいまさね 貴き我が君 御面謂之美於毛和(『万葉集』巻一九) 59原文秋柏 潤和川辺 細竹目 人不顏面 中国人の見た日本の自然と人々 勝 訓読秋柏潤和川辺の小竹の芽の人には忍び君に堪へなくに(『万葉集』巻一一) 60原文朝柏 閏八河辺之 小竹之眼笶 思而宿者 夢所見来 訓読朝柏潤八川辺の小竹の芽の偲ひて寝れば夢に見えけり(『万葉集』巻一一) 61原文奈良山乃 児手柏之 両面尓 左毛右毛 人之友 訓読奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の伴(『万葉集』巻一六) 62原文伊奈美野乃 安可良我之波々 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之 訓読印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし(『万葉集』巻二〇) 63原文知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保々麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴 訓読千葉の野の児手柏のほほまれどあやに愛しみ置きて誰が来ぬ(『万葉集』巻二〇) 64原文能野川 石跡柏等 時歯成 吾者通 万世左右二 訓読吉野川巌と栢と常磐なす我れは通はむ万代までに(『万葉集』巻七) 65原文吾勢故我 捧而持流 保宝我之婆 安多可毛似加 青盖 訓読我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(『万葉集』巻一九) 66原文皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保宝我之波 訓読皇祖の遠御代御代はい重き折り酒飲みきといふぞこのほほがしは(『万葉集』巻一九) 58は「松柏」としての「柏」であり、「松」と並べられていることや歌のリズムからも「まつかしは」ではなく「まつかへ」と読ん.

日本写真映像写真専門学校. 伊東深水(いとうしんすい)は、大正から昭和にかけて活躍した東京出身の浮世絵師で、日本画家、版画家です。 浮世絵の正統派、歌川派を継ぐ人気絵師として多くの美人画を残したことで知られ、女優・朝丘雪路の父親でもあります。 第二次大戦後は美人画だけでなく日本画も多く手がけました。 伊東深水は1911年に14歳で鏑木清方に師事し、夜間学校での勉強と並行して日本画を学び、15歳で巽画会展入選という快挙を果たすなど、早くから絵画の才能を発揮します。 新聞の挿絵画家としても活躍したほか、伊東深水の美人画は非常に人気が高く、複製版画としても出回りました。. m☆中国人の見た 日本の自然と人々 周秀泉写真集 1999年5月28日初刷発行 コレクション /cv28. 周永康(1942年12月3日 - ),男,漢族 ,原名周元根,江苏省 无锡市人,中国共产党和中华人民共和国前主要 领导人之一,中共第十五至第十七届中央委员,第十六至十七届中央政治局委员及第十七届 常委和中央政法委書記 。. 2キロメートルぐらい有りそうで、公園内には有料の駐車場もあります。 瀋秀園は大師公園の一角にある中国式自然山水公園で、国内では最大級だそうです。無料なのが信じられないくらい良い場所です。. 竹内栖鳳(たけうちせいほう)は京都の小料理屋に生まれた日本画家。 近代日本画の祖といわれ、伝統的な日本画のモチーフであった日本の風光明媚な四季の景色や風物だけにとらわれず、ライオンや象などの舶来の動物、犬猫などの身近な生き物も描きました。 竹内栖鳳の画力はそのリアリズムに象徴され、画面から獣のにおいや毛並みの柔らかさが感じられるような生々しくも繊細な作風が特徴です。 海外での評価も早くから得ており、1900年のパリ万博で「雪中燥雀」が評価されたことをきっかけにヨーロッパを巡り、コローやターナーなどの西洋絵画からも大きな影響を受けました。 竹内栖鳳の作品のポイントは、四条派という日本画の流派をベースにしながらも、狩野派や西洋絵画の写実的な要素も取り入れたこと。 戦前の京都画壇の名画家として、「東の横山大観、西の竹内栖鳳」と呼ばれる日本画の巨匠です。.

「柏」は常緑であり、葉には良い香りがあって、実がなる。材は建築材に適し、狂いが出にくく細工がしやすいとおもわれ、さらに、腐りにくく、材にも良い香りがあるとおもわれる。 しかし、これだけでは具体的な樹木像には結びつかない。そこで、もう少し植物的な特徴を知るために本草系統の資料をみてみると、以下のような記述がある。 24檜、柏葉松身則葉与身皆曲、樅、松葉柏身則葉与身皆直、樅以直而従之、檜以曲而会之、世云柏之指西猶磁之指南也(陸佃『土+卑雅』柏) 25柏一名椈、樹聳直、皮薄肌膩、三月開細瑣花、結実成毬状如小鈴多弁、九月熟、霜後弁裂中有子大如麦、芬香可愛(王象晋『群芳譜』柏) 24の例によれば「檜」という樹は「柏」のような葉に「松」のような幹で、葉も幹も「曲」であり、「樅」という樹は「松」のような葉に「柏」のような幹で、葉も幹も「直」であるという。また「柏」の樹は方位磁石のように西を指すという。とすれば「柏」の葉は「曲」で幹は「直」である。曲がっている葉、というのはピンとこないが、松葉のようにまっすぐでない葉、という意味にとっておく。木が西を指す、というのも、どのように西を指すのか不明であるが、この点については後で触れることにする。25にも「樹聳直」とあり、24と合わせて「柏」樹はまっすぐにのびる樹のようである。また「皮は薄く、木肌には膩があり、三月には細かな花が咲き、毬状の小鈴のような実をたくさん結ぶ。九月に実は熟し、霜が降りた後分裂する。中には麦粒大の子があり、良い香りがする」という。 「柏」樹について以上のような植物学的特徴を示す記述があったわけであるが、それでは植物学者や中国古典の研究者たちは、どのような樹木をこの「柏」という樹であるとしているのだろうか。 26汎彼栢舟 (上略)栢和名カヱ(中略)側栢アリ扁栢アリ側栢コノテカシハト云共ニ栢ナリ(『陸氏草木鳥獣虫魚疏図解』) 27栢 (上略)側栢和名コノテカシハト云庭除ニ多ク植ルモノナリ(中略)扁栢ヒノキナリ世ニ檜ノ字ヲ用ユルハ非ナリ(以下略)(『詩経名物弁解』) 28柏(栢も同じ) 椈、側柏(和名は加閉) 俗に白檀という。また唐檜葉・児手柏ともいう。 木+舌 円柏(俗に柏杉という)(『和漢三才図会』巻第八二 香木類) 29柏 (上略)凡ソ単ニ柏ト称スルハ側柏、扁柏ヲ通ジテ言フ(中略)側柏ハ、コノテガシハ. そのうえ中国各地で日本人が旅館を経営していたから、「其処に宿泊すれば、支那語や英語などがあやつれなくとも、格別の不自由はない. 2 儒教で、理想的な人とする尭(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)や殷(いん)の湯王、周の文王あるいは孔子などをいう。 3 カトリック教会 で、 殉教者 や、 信仰 と徳に特に 秀 で 教皇 によって公式に列聖された人。.

中国人教師 シャオ、Shao. 見事に王莽を討ち取り、天狗になってもおかしくない場面。 それでも劉秀は、あくまで更始帝を立てた行動に徹します。と、これがまた人望を集めることになりました。 他者からしても、劉秀のほうが器がデカくて優秀だと思われていたようです。 更始帝は劉秀の実力を恐れ、都に縛り付けたりいろいろやりますが、他に地方の反乱を平定できる人物がおらず、結局劉秀を頼ることになります。 劉秀もそれに気づき、数十万の兵を味方につけた時点で更始帝を見限りました。 部下にも「貴方が皇帝になったほうがいい」と言われ、自ら即位することを決めます。 即位については二回は断り、三度目でようやく承知したとか。劉備と諸葛亮の「三顧の礼」の元ネタ?かもしれませんね。頼むほうと頼まれるほうの身分が逆ですが。 更始帝はかつて王莽を倒した際の協力者だった赤眉軍によって殺されています。 赤眉軍はその後、劉秀の部下に敗れ、劉秀に降伏しました。 そして劉秀は即位から11年で中国各地を平定し、漢王朝の復活を成し遂げます。. 王莽がめちゃくちゃをやったおかげで民衆はすっかり疲弊していたため、光武帝となった劉秀はまず、国力を蓄えることを優先しました。 中でも大きく影響を与えたのが、地方への駐在軍を廃止し、徴兵をやめて傭兵で軍事を賄ったことです。 こうすることで軍にかかる費用を減らし、さらに兵を養うためにかかる税を減らしました。 しかし、光武帝が亡くなると、この仕組みがかえって仇となります。 後漢では30代で亡くなる皇帝が多く、世代交代が非常に早く行われました。ほとんどの皇帝が10代前半で即位しています。 こんなに若い皇帝が親政を行えるはずもなく、自然と宦官や皇帝の外戚が実権を握るようになっていきました。となると身内びいきが状態化するわけで、それに不満をいだいた地方豪族や民衆の反乱が相次ぎます。 正規軍を減らしたことで、反乱を鎮圧できなくなってしまったことも一因でした。 光武帝の思いやりが仇になってしまったのです。 また、反乱を起こさない豪族や官僚も、中央に賄賂を送るために民衆から搾取しまくります。 後漢では、絵に描いたような腐敗政治と戦乱の時代が長く続いたのです。 光武帝は草葉の陰で泣くどころか悶絶してたでしょうね。 そんなこんなで184年に黄巾党という新興宗教の首領・張角が反乱を起こし、それを討伐しようと名乗りを上げたのが曹操や劉備、孫堅などでした。 彼らがまた相争い、三国時代へ流れていきます。 しばらくの間、三国の一つである魏(曹操)とそれを簒奪した晋によって漢王朝の血筋は保たれましたが、その後殺されたため、結局絶えてしまいました。 世界史上ではよくある話ですが、どうにもやるせないというか無情というか。 長月 七紀・記 【参考】 光武帝/Wikipedia 新末後漢初/Wikipedia 王莽/Wikipedia. 前田青邨(まえだせいそん)は、岐阜県出身の日本画家。 近代日本画家・平山郁夫の師匠としても知られています。 日本の伝統的な大和絵を学び、ヨーロッパ留学で西洋絵画、とくに中世イタリア絵画の影響を受け、武者絵などの歴史画から花や鳥といった自然物まで幅広い題材の作品を制作しました。 画壇から日本画界の発展を支え文化勲章を受賞したほか、法隆寺金堂の壁画の修復や高松塚古墳の壁画の模写など、歴史的・文化的事業にも多く携わった芸術家です。 晩年にはローマ法王庁の依頼を受け、バチカン美術館に収蔵する「細川ガラシア夫人像」を完成させています。. まず、中国における「柏」は ・常緑樹である ・葉および材によい香りがある というこの二点が大きな特徴となって中国人に神聖視されたとおもわれる。また、日本における「カシハ」は ・葉が大きく美しい ・枯れてしまってもすぐに落葉しない という点から、やはり古来神聖視されてきた。しかし、この二物はまったく別のものである。 この「柏」と「カシハ」が結びついてしまった要因として、中国伝来の辞書・韻書を書き写す際の誤筆写という点が考えられる。「柏」字と「栢」字があたかも別字であるかのように用いられることがあるという点も、この説を補強するかもしれない。しかし、その介在をしたとおもわれる「槲」「木+解」の二文字は使用頻度もあまり高くなく、この誤筆写だけで日本人全体が「柏」を「カシハ」に誤同定したと考えるには少々無理があるとおもわれる。 この大規模な誤同定を引き起こしてしまった原因として、本稿では次のような結論に達した。 中国古典文学上における「柏」のもつイメージと日本古典文学上における「カシハ」のもつイメージには、以下のように外見の相異からは予想もつかない類似点があった。 ・「後彫(凋)」と「枯れてもすぐに落葉せず、枝についたまま冬を越す」という点 ・神聖視された樹であるという点 ・「椒柏酒」と「御酒柏」など、酒とのつながりがあるという点 ・「門閭を守る」と「葉守の神」など、なにかを守ってくれると考えられていたという点 このような類似点をもつことから、実物を見ることのできない大半の日本人が「柏」と「カシハ」を結びつけてしまったのではないだろうか。「柏」樹という文字情報を理解する過程において、それが日本人にとってまったく見知らぬ、想像もつかない樹であったなら、注意深くその実際を確かめたかもしれない。しかし、こうしたイメージをもつ「柏」という樹は、日本人にとって覚えのある樹であった。それが「カシハ」だったのではないだろうか。 古代の日本において、「柏」樹を正しく認識するだけの中国書がなかったとはおもわれない。これは日本の医学・本草学者たちが「柏実」などの薬を正しく認識していたことからもわかることである。寺井氏はその論文の中で中国本草学の強い影響力をあげ、本草書に接した日本人が「柏」と「カシハ」を結びつけてしまったのではないか、という主旨を述べておられるが、本草書に接するような人. . 9の大地震が発生した。建造物の倒壊などで 多数の死者・行方不明者が出ているが、現在も災害の全. 邢暁婧 (中国) 「3言語間の語彙的表象の結合関係 -中国人,韓国人,日本人の外来語処理-」 周景紅(中国) 「中国語を母語とする日本語学習者のピッチアクセントの知覚に及ぼす諸要因」.

中国を初めて統一したのは、教科書でもおなじみの始皇帝です。 始皇帝の王朝は「秦」といいますが、跡継ぎをハッキリさせないまま急死してしまい、二代目で滅亡という呆気ない終わりを迎えてしまいます。 そして項羽と劉邦をはじめとした戦乱の時代を経て、最終的に劉邦が漢王朝を作りました。 時は流れ、漢の十五代目の皇帝になるはずだった劉嬰りゅうえいのとき、外戚である王莽(おうもう)によって一度滅びてしまうのです。 王莽は若い頃は苦労しており、一見まともな働きをしていました。 しかし伯父である大将軍・王鳳が亡くなる前に「王莽のことをよろしくお願いします」と当時の皇帝である成帝に託すと、王莽もヒイキされて出世していきます。 成帝の母が王莽の伯母・王政君だったからです。 成帝の次に即位した哀帝は外戚を排除しようとし、王莽も一時地方へ追いやられましたが、王莽復帰の嘆願が多く集まったために、復帰させざるを得ませんでした。 民意に従った形ですが、これがかえって漢に悪影響を与えることになります。 王莽は儒学や占いに基づいた政治を行う一方で、人気取りのため自分の息子達を自殺に追いやるなど、冷酷な面も表し始めました。. 38栢 補格反 椈 椈 居陸反 栢也 柏 補格反(『天治本新撰字鏡』) 39栢 兼名苑、栢〈音百〉一名椈〈音菊、加閉〉 榧子 本草云、栢実〈上音百〉一名榧子〈上音匪、加閉〉 槲 本草云、槲〈音斛、可之波〉唐韻云、柏〈音帛、和名同上〉木名也(『箋注倭名類聚抄』) 40柏〈カシハキ〉木+解〈同〉 栢〈ハク〉〈カヘノキ〉椈〈同〉 榧子〈カヘ〉栢実〈同〉(『前田家本・黒川家本色葉字類抄』) 41柏〈上帛、カシハ、ナツ、ウツ〉 栢〈百上、カヘ、一名椈、ウツ〉 栢子〈一名榧子〉(『類聚名義抄』) 42栢実子人〈出蘇敬注〉一名堅剛一名椈〈音菊巳上二名出兼名苑〉和名比乃美一名加倍乃美(『本草和名』) 上記38の『新撰字鏡』ではその記述は『説文解字』や『爾雅』に忠実である。ところが、39の『倭名類聚抄』になると、「栢」の記述は中国での「柏」と同じであるが、「槲」の条に「唐韻云、柏」と言い、その「槲」字は「可之波」と訓じている。さらに中国の本草書では「栢実」は木部の上品に、「榧子」は下品にあり、この二物が同じ物でないのは明らかなのだが、『倭名類聚抄』では「榧子」の条に「本草云、栢実一名榧子」とあり、これを混同している。『前田家本・黒川家本色葉字類抄』や『類聚名義抄』でも同じ傾向がみられる。この点に関しては『箋注倭名類聚抄』で狩谷木+夜斎がその注に以下のように述べている。 43按五経文字云、柏経典相承作柏、知栢柏同字(中略)則源君誤分栢柏為二字無疑也、此作柏非源君之旧、下総本有和名二字、栢重見木類(『箋注倭名類聚抄』榧子) 44下総本有和名二字、本草和名云、槲和名加之波岐、一名久奴岐、源君以釣樟及挙樹為久奴岐、故此不取是名(中略)按栢実新修本草上品載之、不与槲之載在下品同(中略)則槲柏非同物明矣、皇国古書訓柏為加之波、蓋其説不同也、源君混槲柏為一条、非是(中略)蓋源君誤以柏栢為別字也、今俗承其誤、以為二字不同非是(『箋注倭名類聚抄』槲) 『倭名類聚抄』の著者源順が「柏」字と「栢」字とを別字としてしまった、との説は先に寺島良安も『和漢三才図会』中で「また俗に栢に榧の訓をつける。恐らくこれは柏と栢とが同字であることを知らず、(加閉と加夜と)和訓が似ているので誤用したのであろう。」と述べており、賛同できる。しかし、ここに問題点が残る。「槲」字と「柏」字が結びついた理由がわからない. 下村観山(しもむらかんざん)は、和歌山に生まれ、東京や茨城で活躍した明治〜昭和初期の日本画家です。 近代日本画の父と呼ばれた狩野派最後の画家・狩野芳崖などに師事し、伝統的な日本画から写実的な描写や空間表現などを取り入れた新しい日本画までを学びました。 1887年に創立された官立の東京美術学校(後の東京藝術大学)の第1期生として、横山大観らとともに在籍し、下村観山は卒業後すぐに助教授に抜擢され後進の指導にあたります。 同時に自身の創作活動も深めながら、美術評論家の岡倉天心らとともに1898年、美術団体・日本美術院を設立。 下村観山は文部省の命を受け、日本文化の発展に貢献するべくヨーロッパ留学も果たし、ラファエロなどの西洋絵画の模写や研究にも取り組みました。 作品のモチーフとしては風景や動物のほか、仏教や歴史上の人物、謡曲の場面なども取り上げ、画面からストーリーを感じさせる日本画に仕上げています。. 日本人が土器や漆器を使って生活していた時 中国人はそんなの知らなかったわけだし 貴石文化もシベリアから日本が中国より早かったのではなかったっけ? 大学の講義で習った気がするw 中国人の誇る陶磁器も貴石文化も実は日本から伝わったんじゃねーの? ここで取り上げる「柏」と「カシハ」にも、そういった中日間の相異がある。中国でいう「柏」と、日本でいう「柏(カシハ)」とは、指している植物が全く異なるのである。簡単に言えば、中国の「柏」は常緑樹であるのに対し、日本の「柏(カシハ)」は落葉樹である。しかしながら現在、日本で「柏」と言えば落葉樹の「カシハ」のことであるとして広く認識されている。では、この違いはなぜ、どうして起こってしまったのか。全く別の樹木を指すはずの「柏」字が、日本語の「カシハ」とどうして結びついてしまったのか。本稿はこれらの疑問に、中国・日本両国における「柏」および「カシハ」の用途とその持つイメージを明らかにすることで、一つの答えを提示してみようと試みるものである。 しかし本稿の構想がおおよそまとまった段階で、問題意識も研究法もほとんど同じ先行論文を見つけてしまった。結論や論旨がほぼ同じになってしまうかともおもわれるが、本稿によって何か一点でもこの「柏」と「カシハ」に関する問題を解決するための糸口がつかめれば、とおもい、研究を続けることとした。 なお本稿での漢字は論旨上で不可欠な場合を除き、固有名詞も含め一律に常用漢字・人名用漢字のJISコード文字を用い、それらにない文字は正字に改めた。. もし日本政府にまだいくらかの良識と良心が残っているのなら、中国の人々に対して誠意あるおわびをするべきだ。 今年は世界反ファシズム戦争勝利70周年という重要な節目であり、日本の首相による戦後70年談話は全世界から大変注視されている。. そもそも万単位の中国人学生たちは如何にして突如キャンベラに集結したのか。この疑問が氏の中国研究の始まりだった。 氏の体験は、同じ年、長野市に中国人学生が集結しチベット人や日本人に暴力を振るった事件とほぼ完全に重なるではないか。.

川合玉堂(かわいぎょくどう)は、日本の自然を愛し、日本画のモチーフとした愛知県生まれの画家です。 円山・四条派、狩野派などの画家に師事し、それぞれの流派を融合した作風で日本の山河や四季折々の風景を描きました。 川合玉堂の描く自然美は写実的かつ趣きに富み、その作品はフランス、イタリア、ドイツなどでも高く評価されています。 俳句や詩作にも親しみ、歌集も刊行するなど、文化的素養に優れた人物であったことも知られています。 東京美術学校の教授も務め、1940年には文化勲章を受賞。 第二次世界大戦中に疎開先として選んだ東京西部の青梅市の豊かな自然を気に入り、終の住処としました。 現在も、青梅市の玉堂美術館でその作品を見ることができます。. 「年の動画」に、『田中英道 日本から見たサピエンス全史21 中国の文明と歴史に連続性はあるのか?(/01/03 公開)』、『田中英道 日本から見たサピエンス全史22★秦の始皇帝は中国人ではなかった。羌族、秦氏、客家、呂不韋の血脈。. 50爰降豊宮宴 広垂栢梁仁(刀利康嗣「侍(ママ)宴」『懐風藻』) 51椒花帯風散 柏葉含月新(守部連大隅「侍(ママ)宴」『懐風藻』) 52為期不怕風霜触 似巌心松栢堅(藤原朝臣宇合「在常陸贈倭判官留在京」『懐風藻』) 53芝クサカンムリ+惠蘭クサカンムリ+孫沢 松栢桂椿岑(藤原朝臣宇合「遊吉野川」『懐風藻』) 54煙雲万古色 松栢九冬専(麻田連陽春「和藤江守詠裨叡山先考之旧禅処柳樹之作」『懐風藻』) 以上五例は『懐風藻』に出てくる「柏」の全用例である。50の例の「栢梁」は漢武帝の築いた柏梁台のことであり、そこで開かれたという詩会を思わせるような眼前の盛大な宴を、帝の仁のおかげであると賛美しているのである。51の例も「椒花」と対比していることから、常緑樹の「柏」のことであろう。第一章の『荊楚歳時記』の例19によれば、中国では元旦に「椒柏酒」を飲んで邪気をはらう、とあり、この宴も新春に行われたものであるから、こうした例をふまえての表現と考えられるのである。52や54の例も『論語』の例4をふまえての表現とおもわれるし、「松栢」と連ね称していることからも、常緑樹の「柏」であろう。53についても、前後に並べられた草木はいずれも香草・香木の類であり、常緑の香木としてとらえられていると見るべきである。 このように見てくると、日本漢詩という世界の中では「柏」は中国古典におけるイメージに忠実にとらえられているようにおもわれる。そこで、もう少し視野を広げて他の例も見てみよう。 55舎屋之〈享本之ナシ〉北、〈寛本之地〉池沼之南、裁松杉竹栢(『明衡往来』第七三条) 56栢葉橘葉等、有好香。暫若花代。(中略)是則秘法中説也。若夏冬等無時花時、且用木葉供仏、起於斯也(『東山往来』一八) 57齡争栢松 楽等山海(『菅丞相往来』六月状) 以上三例は往来物と呼ばれる消息(手紙)文例集からの引用である。55の例の「栢」は列挙されている樹木からして常緑樹であろう。56の例の「栢葉」も、「橘葉」と並べて良い香りがあると言っている点や夏冬の花のない時に代用したという記述から、常緑樹の「柏」であろう。57の「栢松」も多寿の木や神仙とのつながりといったイメージでとらえられており、これも中国古典のイメージに忠実な用いられ方である。 しかし、それでは当時の日本人たちは、少なくとも漢詩文を作るときに限っ.

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